龍棋会の歴史

昭和39年から平成25年まで

<昭和39年> 同好会「龍棋会」のはじまり
 熊大将棋部「龍棋会」は、昭和39年に村上・清田両氏を中心として発足した。 その当時はまだ同好会であり、部室も五葉会の一室を借りて活動していた。 「龍棋会」の名は、熊大の背後にある立田山(龍田山)(たつたやま)の「龍」の字と、 飛車成りの「龍」とをかけて、名づけられた。

<昭和40年> 将棋部「龍棋会」に昇格
 昭和40年には部員が30名に達し、6月に同好会から部への昇格が認められ、九州大会への参戦や、 熊本市役所との定期戦など、部の活動も多彩になった。

<昭和44年> 部室のはじまり
 昭和44年には待望の部室を獲得し、この年から「順位戦」が開始され、大会でも団体戦2位など、 龍棋会の活躍がめざましくなる。

<昭和48年> 初の個人戦優勝
 昭和48年の春に伊東忠信氏が九州学生名人獲得という、龍棋会初の快挙を成し遂げた。 またこの年の秋には、久保数男氏が龍棋会二人目の九州学生名人となった。 昭和50年秋の個人戦決勝は、初の熊大決戦となり、米村憲輔氏が久保数男氏を破って優勝した。

<昭和51年~57年> 第1期黄金期(団体戦優勝5回)、松下学生名人の誕生
 昭和51年に、ついに団体戦優勝を成し遂げ、西日本大会でも2位という好成績をおさめた。 この昭和51年春から昭和54年秋までの8大会において、龍棋会は優勝5回、準優勝2回というすばらしい成績をおさめ、 このうち昭和53年には王座戦3位となり、その名を全国にとどろかせた。

 個人戦では、昭和51年春秋の米村憲輔氏の準優勝、昭和52年春の金山通夫氏の準優勝、 そして昭和53年春には2度目の熊大勢同士の決勝となり、金山氏を下して優勝した松下和広氏が、 九州初の全国学生名人という偉業を達成した。その後も松下氏は、春季大会3連覇を成し遂げた。

 新人王戦においても、昭和50年に金山氏、昭和52年に松下氏、昭和53年に浦田康夫氏が優勝している。 しかし昭和56年秋、昭和57年春に優勝した後は、その座を九州大学に奪われてしまう。 九大全盛期においても、昭和58年秋に山本義光氏が準優勝、昭和60年秋に瀬崎正治氏が古賀一郎氏を破って優勝、 昭和63年春に藤田雄一郎氏が準優勝など、優秀な成績をおさめている。

<平成元年> 7年ぶりの団体戦優勝
 元号が変わった平成元年春に7年ぶりの団体戦優勝を遂げ、個人戦でも藤田氏が準優勝の好成績をおさめた。 この年の新人王戦で甲斐満氏が優勝し、熊大時代の再来を予感させた。 平成元年秋、翌2年春には、中村太平氏が個人戦連覇を達成した。 平成3年の秋には団体戦優勝、個人戦でも春・秋それぞれに甲斐氏・中村氏が準優勝した。 平成8年秋には甲斐光洋氏が龍棋会7人目の九州学生名人となった。

<平成9年~12年> 第2期黄金期(団体戦6連覇)
 平成9年春の団体戦では優勝、翌10年の団体戦では、春季・秋季ともに他大学を圧倒し全勝優勝で春秋連覇を成し遂げ、 その原動力ともなった1年生の土橋健一氏が九州学生名人となった。 つづく平成11年春には団体戦優勝および個人戦では甲斐光洋氏が再び九州学生名人の座についた。 以降、平成11年秋季、平成12年春季・秋季と、熊大の団体戦制覇は部史上初の6季連続となり、 黄金期の再来といえる充実ぶりを発揮した。

<平成13年> 土橋健一氏、3回目の個人戦優勝
 団体戦の連覇は翌平成13年春季大会で九州大学に阻まれたが、熊大は平成14年春季まで3季連続の準優勝となり、 土橋健一氏は平成10年秋季以降も平成11年秋季、平成13年春季(決勝は山内啓史氏との熊大勢対決)、平成14年春季の個人戦を制し、 九州学生棋界での存在感を示した。平成14年8月、西日本大会個人戦で土橋健一氏が3位に入賞した。

<平成14年~23年> 低迷期
 平成14年秋季から龍棋会は長い低迷期に入ることとなる。 特に平成14年秋季から平成21年春季までの7年間は九州大会団体戦で優勝も準優勝もなく、龍棋会にとって厳しい時期となった。 平成15年春季大会では龍棋会史上初めての団体戦最下位を喫し、平成16年秋季大会で再び団体戦最下位となっている。 平成16年は1年間に4人が退部し、現役部員がわずか7名にまで減少し苦しい時期となった。

 平成18年に梅雨による部室の雨漏り被害を受け、一時的に部室が使用不能となる事態となった。 平成18年秋季団体戦では7人制に対し参加人数も7人と、部の運営状況も厳しいものであったが、OBの支えもあり、活動を続けることができた。

 平成19年春季大会の団体戦で2位と同率の3位となった。 池田靖氏が団体戦全勝を達成し、個人戦でもベスト4に進出するなど、大きな存在感を示した。 さらに池田氏は秋季個人戦を制し、龍棋会9人目の九州学生名人となった。 低迷期の約10年間で龍棋会の九州学生名人は池田氏のみである。

 平成20年に女性3名を含めて部員が多く入部し、他大学との合同合宿も開かれるなど部の活動が一層活発なものとなった。 大会においても新人王戦にて佐藤誠氏が優勝するなどの活躍が見られた。

 平成21年秋季大会の団体戦で7年ぶりとなる準優勝を果たし、長い低迷期を脱する兆候となった。 部員も25名となり、地元アマチュア大会等への参加も積極的に行うようになった。 平成22年夏季北九州大会新人王戦の結果から当時新入生だった吉永氏が西日本大会に出場した。 前年に引き続き秋季団体戦では準優勝を果たしたが、団体戦の参加校数が4校にまで減少し、九州棋界の存続自体が危ぶまれていた。

 平成23年の梅雨、大雨によって部室が水害に見舞われた。畳や書籍、対局時計など多くのものが被害に遭った。 前年に引き続き吉永氏が西日本大会に出場したほか、同氏が全九州学生将棋連盟の理事長に就任した。

<平成24年> 12年ぶりの団体戦優勝
 平成24年は春季九州大会での準優勝と西日本大会出場から始まり、秋季九州大会では12年ぶりの優勝を果たし、学生王座戦に出場した。 秋季大会個人戦で小崎祐太郎氏が準九州学生名人となるなど、1年を通して非常に良い戦績を残した年であった。

 平成25年に龍棋会は50周年を迎え、前年に引き続き秋季九州大会で優勝を果たし学生王座戦に出場した。 また浪江穂高氏が池田靖氏以来の九州学生名人となった。部員数も30名近くになり、部室にも日々活気があふれていた。


龍棋会の会員数

2023年(令和5年)8月現在  : (OB)208名、(現役)18名  (合計)226名

龍棋会の沿革

1963年(昭和38年)4月 村上英一さん、清田紀一さんが熊本大学に入学。
1964年(昭和39年)6月 熊本大学将棋同好会「龍棋会」が発足。部長は村会英一さん、副部長は清田紀一さん。
1965年(昭和40年)5月 九州学生将棋大会に初出場。会場は福岡大学。
1965年(昭和40年)6月 部員が30名に達し、将棋同好会から将棋部へ昇格。
1968年(昭和43年)7月 初めての夏合宿が高森町で行なわれた。
1969年(昭和44年)3月 五葉会の借部屋から生協食堂近くの部室へ移動。
1975年(昭和50年)8月 第1回のOB総会が熊本市で開催された。
1983年(昭和58年)8月 20周年OB総会が丸子旅館(熊本市)で開催された。
1993年(平成05年)8月 30周年OB総会が開催された。来賓は早咲誠和アマ名人。
1998年(平成10年)7月 熊本大学将棋部のホームページを開設。ウェブ係は小柳謙二さん(平成9年入学)。
1999年(平成11年)1月 部室が新サークル棟へ移転した。
2003年(平成15年)8月 40周年OB総会が開催された。来賓は早咲誠和アマ名人、田尻隆司アマ名人。
2013年(平成25年)8月 50周年OB総会が丸子ホテル(熊本市)で開催された。来賓は熊日観戦記者の仲本正次郎さん。
2023年(令和05年)8月 60周年OB総会が国際交流会館(熊本市)で開催された。
2023年(令和05年)11月 ホームページをリニューアル。トップページに15個のパネルを配置。龍棋会の棋譜を掲載。



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